都鄙往還雑考

宝塚の山の中と街をいったりきたり 2022年12月よりブログタイトルを変更しています。それ以前の記事は順次整理していきます。

夜の決闘?

夜、気弱な我が家の柴犬がなにやら動く音がしたので様子を伺うと

アライグマと睨み合いになってました。

両者一歩も譲らぬ睨み合い…

かと思えば

我が家の柴犬はあっさり私に先陣を譲ってくれました。

まったく…

なかなか図々しいアライグマ

ライトで壁を叩いても

石を投げても

逃げません。

ホウキを持って裏に回り込んで近付いたら

ようやく逃走

姿を消しました。

警備を頑張った柴犬さんには

特別におやつが出ました。

カラスに餌を狙われたり

猫に餌を食われてたりしたこともありましたが、

なかなか今夜は踏ん張りましたね。

 

 

29年目の非日常

今年の1月17日も寒くよく晴れていた。

今年は珍しく新聞記者と話す機会があった。

震災追悼行事の取材に来る記者と話すのは何年ぶりか

私の震災は記者が欲しがる震災ではないから

話してもあまりいいことはないと思うから

あまり話さないのだが

神戸新聞の記者さんは珍しく真面目に取り合ってくれた。

なので、あとで名刺のアドレスにメールしたら

これまた真面目にメールを返してくれた。

 

若い記者で震災を知らない世代だったが

知らないから書ける記事があるんではないかと思うので応援したい。

来年は震災30年である。

たくさんの人の震災が語られるだろう。

 

震災は1つじゃない

1月17日に生きてた人の人数分の震災がある。

被災地のど真ん中にいた人

被災地から遠く離れた場所にいた人

被災の距離に関係なく

震災は常に隣にある

 

被災と距離が遠い人は震災を忘れるだろう。

被災と距離が近すぎた人は忘れたいと思ってるかもしれない。

私は被災に遠くもなく、ど真ん中でもなく

中途半端な距離だった。

 

私の震災は常に隣にいる

普段は眠っているが

時々起きてくる

よくも悪くも

私を揺らし続ける

 

あの日私はまだ中学生だった

だから、震災で長年築き上げたものを破壊されたわけではない

震災を考えることは自分の出発点でもある

1月17日は慰霊の日であり、

私にとっては自分を確認する日でもある

 

1月17日の夕刊と翌日の朝刊は

追悼行事に参加した人の震災が掲載される

追悼行事に参加できない人の震災が掲載されることはない

慰霊碑に故人の名前を刻まない判断をした遺族の震災が掲載されることはない

30年たったら終わりではない

多くの人の震災はまだまだ埋もれていて

1月17日を生きた人がいなくなるまで

震災は終わらないのだ

私はそう思う

私の震災は私のもの

 

4年目の日に

事件から4年が過ぎた。

4年前にFacebookにもこの写真と共に

「ドクター・サーブはいつも彼らと共にあった」と書きました。

そうドクター・サーブ中村は

政治家や富裕な有力者、軍閥たちではなく

写真に写る農村の人々と共にありました。

「一隅を照らす」

いや先生

私は「一隅で迷走してます」

12月の武田尾駅

武田尾駅から撮影

福知山線廃線跡ハイキングコースの最寄駅です。

山の色がいい季節です。

朝早いと霧もいい日があります。