都鄙往還雑考

宝塚の山の中と街をいったりきたり 2022年12月よりブログタイトルを変更しています。それ以前の記事は順次整理していきます。

さそり考

宝塚市には佐曽利と書いて「さそり」と読む地名がある。

現代の住所表示としては「上佐曽利」「下佐曽利」となっている。

上と下に村切され分かれたのは江戸時代の頃と言われる。

佐曽利を苗字とした佐曽利氏という土豪の本拠地であり、

多田院御家人として鎌倉時代後期に佐曽利八郎の名前が確認されていると

宝塚市史」にある。

では、佐曽利の「さそり」は蠍に由来のするのか?



↑こちらはアフガニスタンにいたサソリ

でも、

佐曽利はおそらく焼畑農耕に由来する地名と思われる。



ただ問題は中部地方や甲信に多い地名のようである。

ここは関西、兵庫県

これらの地域とどこかで縁があったようである。

史料で二つ明らかな縁がある。

最初は源平合戦の頃、

治承寿永の乱まで多田荘は多田源氏棟梁の多田行綱支配下にあった。

鹿ケ谷の陰謀では密告者としてイメージが悪いが、

一の谷の合戦の活躍については近年再評価が進んでいる。

多田行綱は、後に源頼朝により所領を追われる。

その後に多田荘を預かることになるのは大内惟義である。

信濃国佐久郡に本拠を置く平賀義信の長男だ。

 

もうひとつは

承久の乱に際し、大内惟義から代替わりした嫡男惟義が

後鳥羽上皇方についたことで、

多田荘は北条泰時の管理下に入り、以後は得宗領となる。

 

平安時代より長く京武者の多田源氏の本拠だった地域に、

鎌倉時代に入り東国からの移住者があったと思われる。

佐曽利の由来や村の発端はこの頃に求められるんではないだろうか?