都鄙往還雑考

宝塚の山の中と街をいったりきたり 2022年12月よりブログタイトルを変更しています。それ以前の記事は順次整理していきます。

二人目の訪問者 その2

1924年(大正13)田鍋安之助は日本を出発。太平洋を渡り、シアトルに降り立つ。
彼はいきなりアフガニスタンに直行したのでないのです。
シアトルでは大学で英語を学びなおし、ロサンゼルスなど各地で黒人差別を目の当たりにし、
ワシントン、カナダのモントリオールからロンドン行きの船に乗り込み、
ここで霞ヶ関からの補助金があったにもかかわらず旅費が不足、
日本に送金を依頼し新たに3千円を補充。
最初から予算内で終わらせるつもりなし。豪気です。
ロンドンよりパリ、ベルリン、ローマ、ナポリギリシャ・・・・・、もうだんだん観光旅行な気がしますが。
トルコの首都アンカラコンスタンチノープルから船でシリアのベイルートへ、さらに車でエルサレムに到ります。
後年の中東問題を考えると重要なポイントを押えた旅路です。そう思いましょう。
さらにこのあとエジプトのカイロで「ザグル・パシャ」と会見しています。
「ザグル・パシャ」って誰?まともに検索しても出てきません。
しかし、『続対支回顧録』ではエジプト独立の英雄扱いです。
ですので、ワフド党を率いてエジプト独立を支持したサアド・ザグルールのことではないかと。
この独立の英雄との会見内容が『続対支回顧録』には出てきます。
独立の英雄の問いを要約すると
「日本とエジプトの親善を進めたいが、イギリスが邪魔するだろう?日英同盟もあるしな」
「エジプトは実質的にはまだ独立できてない。日本の支援は見込めんだろうか?」
これに対して田鍋安之助の答えは
日英同盟なんて昔の話だ。どっちかというと、日本はイギリスを面白く思ってない」→(そーだったのか?)
「独立はまだ待つことだ。じっと待つことである。インドの独立など好機は必ず来る」
「両国親善のためには留学生の交換がいい。それは将来に繋がるのだ」
留学生を持ち出すあたりに、中国でいろいろと蠢きつつも、
東亜同文書院のような教育機関を運営していた東亜同文会理事です。
少なくとも、彼はロシアの水雷艇を捕獲したりと行動派な所だけでなく、
少年期は苦学して海軍軍医学校に、医学を放り出した後に医者として開業する際は勉強しなおし、
アメリカでは英語を学ぶという勉強家・研究肌なところもあります。
この後、エジプトからは船でカラチへ渡り、ボンベイ(今のムンバイ)に到着。
この時代、まだパキスタンという国家はありません。国境線がないとは便利なことです。
インド北西部避暑地として有名で、イギリスのインド政庁夏の所在地シムラでアフガニスタン入国許可を得ます。
この街ではインド駐在武官だった本間雅春陸軍少佐と遭遇。
そして、汽車でペシャワールへ到り、そしてカブールへ。
ようやくカブールです。長い旅路でした。地球一周ですよ。間寛平アースマラソンじゃあるまいし。
彼の旅路はまだ続きます。
 
ところで話の本筋から離れますが、本間雅春は当時陸軍少佐。
後の太平洋戦争フィリピン攻略戦で第14軍司令官にあり、戦後バターン死の行進の責任を問われ刑死。
この時期、インドにいた陸軍軍人は太平洋戦争で司令官クラスに出世し、その最期は・・・。
杉山元は1915年にインド駐在武官終戦時は陸軍大臣であり、終戦に際し拳銃自殺。
記録に残る上では日本人として初めてアフガニスタンに入国した谷壽夫もインド駐在武官
1922年(大正11)にアフガニスタンに入国。帰国後、彼のアフガン報告は機密扱いにされる。
1937年に第6師団長として南京攻略戦に参加、南京大虐殺の責任を問われ、戦後中国にて刑死。
今も南京の博物館では処刑の瞬間を撮影した写真が展示されているそうである。