年末に田鍋安之助なる人物を当ブログで触れたのを憶えておいででしょうか?
1925年にアフガニスタンを訪問。
記録の上で確実な日本人で二人目のアフガニスタン訪問。
カブールから中央アジアを通ってモスクワを旅した最初の日本人。
年末に書いたとき、かなり肝心な所を読み落としており、あまりに面白い人なのでもう一回書いてみることに。
読み落としとはこの旅行で彼が持っていたという名刺の肩書き。
「東亜同文会理事」
彼は単なる旅行者・冒険家の類の人ではありません。
田鍋安之助。
1882年(明治15)上京し、海軍軍医学校に入学。
軍医学校での成績は優秀だったにも関わらず、ある日突然「支那より他なし」と感じたそうで、
以後、医学より兵学研究に打ち込み成績は急降下。
1887年(明治20)東京海軍病院に勤務。
しかし、「海外に雄飛せんと欲すること急であった」ということで、終身官であるにも関わらず、
職を辞するために様々な策を講じ、果ては吉原遊郭から欠勤届けの葉書を書き、
それでも退職できないので、ついには昇進試験を欠席し、ようやく病気免職を得た。
とんでもない税金泥棒です。
彼を見れば防衛大学での任官拒否など可愛い物じゃないですか。
これが許される明治って時代がすごいです。
1889年(明治22)こうして田鍋安之助は念願かなって上海へ上陸。
戦後生まれの我々が言葉でしか知らない「大陸浪人」とはこうして作られるようです。
その後、漢口(今の武漢)、北京、天津を旅し、天津で軍医学校の先輩と再会。
先輩「ええタイミング。こんど帰国するのに代役がいなかったんよ。後をよろしくね~」
彼の軍医としての経歴を思えばとてつもない暴挙に見えますが、居留民会の医師を引き継ぎます。
こんな医者がいれば、居留民の健康が心配になってしまいます。
医者すること8~9ヶ月。この後、いったん郷里へ戻り実家のひどい惨状を見て、
真面目に医学を学び、医師を始めます。学びなおすあたりに、自信のなさを感じます。
1891年(明治24)上海へ再び渡り、租界で病院を開業しつつ、日清貿易研究所衛生部長に。
この間に、当時の朝鮮で開化派だった金玉均の暗殺事件で検死をしてたりと、
歴史的な事件にもめぐり合わせいてます。(マイナーな歴史的事件ですが)
日本と清国の関係が悪化すると、医者という立場を利用し情報収集活動にも従事したようで、
医者でありながら、大陸浪人なところはいっこうに抜けてません。
日清戦争開戦も近くなると、そんなワケで警戒も厳しくなり、ついには帰国しています。
病気になり、須磨や明石で静養。(なんとクマのご近所ではないか!!)
1898年(明治31)東亜会と同文会が合併してできた東亜同文会の成立に貢献したようです。
会長は近衛篤麿。あの近衛文麿の父親です。
上海にあった東亜同文書院の経営母体で、ここは優れた人材を輩出した学校であったのも確かです。
ことの是非、歴史問題云々はここでは省きますが、こういう存在が普通だった時代です。
1904年(明治37)5月。日露戦争も真っ只中の時期に、仲間とともに小型蒸気船を雇って潜入。
戦前の右翼の皆さんは元気すぎです。
その後は軍の輸送指揮官の依頼で今で言う「後方支援業務」に従事。(御用商人?)
朝鮮に家族とともに入植して失敗したり、長春で学校の校長をしたり、北京で新聞社の通信員をしたり、
どう考えても他人の国に首と手を突っ込み、かき乱してるように見えますが・・・・
1916年(大正5)東亜同文会に常任理事として復帰しています。
これまでの経歴でどこでどうやって人種差別問題に目覚めたのでしょうか?
この時期、パリ講和会議の場で人種差別問題が議論に及んだのですが、
『続対支回顧録』は本の性格上、当人に批判は及ばないのですが、
これは単に時流に乗っただけじゃ・・・・・。いや、これはきっとクマの気のせいです。
こうして人種差別問題を目的を掲げ、外務・陸軍・海軍の各省より総額6~7千円の補助金を得て外遊開始。
さすがです。若き日、海軍軍医だった頃より税金泥棒であったことはあります。
しかし、彼のこの外遊がなければ日本とアフガニスタンの国交は開かれなかったかもなのです。
長くなりすぎてるので、次回へ続きます。