都鄙往還雑考

宝塚の山の中と街をいったりきたり 2022年12月よりブログタイトルを変更しています。それ以前の記事は順次整理していきます。

日常は歴史に残らない。

そういえば、昨日は終戦の日でした。
週末あたりは、戦争関連の特番なども多かったようですが、
もう10年か20年経ったとき、同じように終戦の日の前後に、戦争特番はやっているだろうかと考えたりします。
あの戦争をリアルタイムで知っている世代は、どんどん減るばかり。
20年も経てば、あの戦争で戦場に行った人など、きっとほとんどいなくなります。
そういう時に、あの戦争を調べようと思うと、記録に残ったモノだけで考えなくてはならないのです。
今でこそ、カメラは普通にあってyou tubeなどに自分で撮った動画を投稿までできるのですが、
あの時代に、映像や写真で残った光景というのは、かなり珍しい部類に入るはずです。
そんな珍しい部類だけを見て、日本中はこんなことになっていたんだと思うのは、どうも怖い。
例えば、うちの父方の祖母はもう呆けちゃって、孫の僕が誰だかすら分りませんが、
そうなる前は、海軍パイロットで訓練中に事故死したという兄が永遠の憧れだったようです。
そんな祖母は戦時中は都会に住んでいたはずですから、戦争というモノを肌で感じていたと思います。
一方、母方の祖母は田舎の農家出身。戦時中も食べ物に困った憶えはなく、
神戸の空襲があった時は、神戸の方から黒い雲が流れてきたとか、そんな程度。
玉音放送もみんなでラジオの前に集まって聞いた憶えもないとのこと。
同じ時代を生きた人でも、これくらい落差があるワケで、大東亜共栄圏とか、鬼畜米英といった話を、
日本中津々浦々の人たちが信じていたというのは、どうも信じ難く、皇居前広場で土下座をしている写真一つで、8月15日の大日本帝国全部を語るのは、かなり危ないのではないかと思うのです。
きっと皇居前に来た人も、焼け野原のなかにラジオを置いて大勢の人が玉音放送を聞いたというのも、
そんな光景を写真に収めた人がいるから残っているのであって、
カメラに映らなかった他の多くの人は、いつも通りの日常を営んでいたんだと思います。
カメラを持っている人が田んぼで農作業している人なんか撮るワケないのです。
カメラは非日常な風景が展開される場所を撮ったはずなのです。
そういう事を考えるようになったのは、ここ数カ月ほど民俗学者だった宮本常一の著作を読んでるせいです。
戦前から戦後の日本を旅してまわり、81年に73歳で死亡した宮本の著作の中には、
終戦前後の日本についていくつか面白い話が書かれています。
進駐軍が和歌山から上陸し、大阪へ進軍するルート上に当たる紀州街道で、
街道沿いの住民が道路清掃をしていたのを目撃し、
「そうしたら占領政策が寛大になるだろうと思ってのことでもなく、客が来るからきれいにしておかねばならぬという程度の気持ちからであった」と書かれています。
なんとなく昔堅気で真面目な日本人の発想だなと、クマは感じます。
こういう話を聞くと、正しい歴史なんてどこにも存在しないのではないかと考えたくなります。
個々の人たちが体験した歴史は、記録に残る歴史とはきっと一致しないのでしょう。
僕らが戦争中の記録を見るときは、記録されることもないごく普通の日常を生きている人が大勢いることを考えなきゃならんのだろうなと思うのです。