都鄙往還雑考

宝塚の山の中と街をいったりきたり 2022年12月よりブログタイトルを変更しています。それ以前の記事は順次整理していきます。

垣間見た「貧」の風景③難民キャンプにて

2007年、パキスタンでは国内にいたアフガン難民の帰還が行われていた。
それは、かなり無理に、強引に、乱暴に行われたと聞く。
帰る場所がある家族は良いが、帰る場所を持たない家族もいる。
そもそも、帰る場所に困らない人は難民なんてしない。
そんな帰る場所が無い家族のために、アフガン政府は国内に難民キャンプを用意していた。

事務所で差配していたある事業の現場に、担当者に便乗して行ってみた。
かんかん照りの夏のある日、生まれて初めて目にする難民キャンプだった。
周りの平地より一段上がった丘の上。
丘の下は河も流れ、緑もある。
だが、丘の上の難民キャンプは何もない砂漠のような荒野だった。
畑もない。家もない。水源もない。樹木でさえ稀な荒れ地。
テントすらなく。あり合わせの部材で作った小屋が立ち並ぶ。
昼間から大人の男がたくさんいるところを見ると、仕事がないことも察せられた。
祖国に帰ってきて、ここに住めと言われた人はどう思うだろう。
ここに住めと計画した人は、なにを考えていたのだろう。
タリバンを志願する人がいることも理解せざる得なかった。
季節が変わり秋、難民キャンプの中を通った時、アフガン人スタッフが言った。
「ここは夜になると、タリバンが来るんだ」

ジャララバードでは、郊外の既存の難民キャンプの周りに、さらにキャンプが広がり、
市外のビスード橋の北方、クナール河西方の山中にまで大きなキャンプが展開した。
どこも荒れ地であり、水源は遠かった。水汲みは子供の仕事と決まっているので、
重い容器を抱えた子供が、遠い水源の川まで歩いて往復する姿がどこでも見られた。
こんな風に書いてると、さぞかし悲壮な状況と想像するかもしれないが、
子供はどこでも、何をしていても、らんらんと輝く瞳をしていた。
日本の子供の方が、よっぽど表情が少ない。
豊かな日本は、どこか問題があるんだろうかと思いたくなる。

最初はなにもない荒れ地に小屋が立っていた場所も、月日がたてば土壁で家ができていた。
キャンプには、小さい小屋ながらも商店まであった。
状況は良くないが、そこに暮らす人のパワーを感じた。