都鄙往還雑考

宝塚の山の中と街をいったりきたり 2022年12月よりブログタイトルを変更しています。それ以前の記事は順次整理していきます。

埋もれた歴史が面白い

前回記事の「74年前の留学生」で登場した6人のアフガン人。
帰国後、6人ともカブールの政府内部で出世され、局長や大臣を務めた方も。
東京帝国大学教育学部卒業のアブドゥル・ハキムさんは、1970年には最高裁長官として再来日してます。
その後は無事に天寿を全うされたのかな・・・・・。
 
さて今回も参考文献は『日本・アフガニスタン関係全史』
日本とアフガニスタンの関係の始まりから今に到るまで、
特に戦前の両国間の交流の記述はこの本一冊でかなり網羅している。
興味深いのは教科書なんかには書かれない人たちの動き。
田鍋安之助。
1863(文久3)年福岡生まれ。1924年(大正13)年61歳で外遊を開始し、
1925年10月から12月までカブールに滞在。
滞在中、国王に会い、国交開設を要望する天皇への親書を預かり、モスクワ経由で帰国。
なんだこの人は?
きっと福岡には酔狂な人が昔からいたんですな。
この時代の60代ってもう十分に老齢だと思うのだが・・・
幕末生まれはすごいな~
こうして日本アフガニスタン修好条約の調印は1930年11月になりますが、
この爺さんは1943年の「アフガニスタン協会役員一覧」の中に顧問としてあの近衛文麿と並んで登場。
かなり長生きされた模様です。
 
戦後の記述にはJICAが今もやってるジャララバードでの稲作普及の前身になる事業が、
朝日新聞1980年3月10日の記事を転載する形で書かれているなど、
埋もれた歴史が色々書いてるあるのですが・・・・
この本の巻末年表はもの凄い力の入りようで、本の分量の半分近くを占めます。
歴史上の事実から、書籍、記事、展覧会から旅行広告まで押さえてあるほど。
これを読むと驚くべきことに1979年の夏ごろまでアフガニスタンへの旅行広告が出てるのです。
年表によればこの年は1月から反政府ゲリラとの戦闘が記録され、12月にはソ連侵攻を迎えるという年です。
いま旅行会社がこんな広告出したら総スカンとなるはずですが・・・・
政治な話では、1987年4月「日本外務省、アフガンの越境爆撃を非難」との文が。
この頃、アフガン国軍はパキスタンへゲリラを追って盛んに爆撃している様子。
同じこと無人機でやってるアメリカには、今の日本外務省は何も言ってませんけどねぇ・・・・
さらに1984年5月「中曽根首相、ペシャワール郊外のアフガン難民キャンプを視察」の文が。
総理自らの北西辺境州入りなんて、今では全く考えられないわ。
 
こうまで詳細なこの『日本・アフガニスタン関係全史』ですが・・・・
気になるのは、対ソ戦を戦ったゲリラの来日に関する記録が欠落している点。
アフガニスタン国家再建への展望』
この本の中に短いながら、
イスラム党ヘクマティヤル派のマンガル・フサイン氏が闘争支援の呼びかけのため来日したこと、
9.11直後にタリバンに暗殺されたアブドゥル・ハク司令官が負傷治療のため来日とあります。
これらの記録がきれいさっぱり抜け落ちているのは、逆に「なぜ?」という感触があります。
誰がどのような形でビザや宿泊先、法務省から入国許可を手配をしたのか。
そもそも当時のアフガン政府から見れば犯罪人である彼らのパスポートはどうしたのか。
このあたりに興味は尽きないのですが、『日本・アフガニスタン関係全史』にはこの件が見当たらない。
これほどの情報量を誇る本なのに不思議と言わざるを得ないのです。