都鄙往還雑考

宝塚の山の中と街をいったりきたり 2022年12月よりブログタイトルを変更しています。それ以前の記事は順次整理していきます。

74年前の留学生

世の中は楽しいクリスマスらしいですが、
大阪の福島区でマイク持たされて区民ホールのステージの上に連行されるという罠にかかったクマです。
わーん、してやられたー
 
さて、この前とあるメールが発端で戦前の日本にやってきたアフガン人留学生について調べてました。
今年は日本に留学希望なアフガン人と会ったこともありで、調べモノとしては中々楽しめました。
1936年2月6日の神戸港に船でやってきた6人のアフガン人。
アブドゥッラー・ジャン・ヤフタリー
ゴラム・ナクシュバンド
アブドゥッラー・ラヒーミ
アブドゥル・ハキム
ヌール・アフマド・サベリ
ムハンマド・ハッサン・カリミ
神戸から東京へ移動したこの6人はこの月に起こる2.26事件を目の当たりしたはずです。
アフガンから日本に来てクーデター騒ぎに巻き込まれるなんて、時代が違いすぎです。
6人は短期間で日本語を習得し1~2年で東京帝大を卒業し学士の称号を得て、
母国への帰国を考えてましたが、日本の大学がそんな特例を認めるわけもなく、
彼ら6人の扱いは聴講生でした。
1937年7月に一時帰国し、10月に再来日。
たとえ留学期間を延長しようが、日本人学生と同様に卒業してみせると決意の再来日。
こうして
アブドゥッラー・ジャン・ヤフタリー
1941年東京帝国大学経済学部経済学科卒業→同大学院へ
ゴラム・ナクシュバンド
1941年東京帝国大学農学部農学科卒業→同大学院へ
アブドゥッラー・ラヒーミ
1941年浦和高校理科甲類卒業→京都帝国大学工学部採鉱冶金科へ
アブドゥル・ハキム
1941年東京帝国大学文学部教育学科卒業→同大学院へ
ヌール・アフマド・サベリ
東京工業大学紡績科→東京美術学校彫刻科へ、42年卒業し卒業作品は文部省美術展覧会で入選
ムハンマド・ハッサン・カリミ
桐生高工→東京工業大学紡績科卒業
6人は1943年秋に帰国しますが、時は第2次世界大戦の真っ只中。
きっと1942年の帝都初空襲も目撃したはず。
日本の方が危険なんて、やっぱり時代が違いすぎです。
とーぜん船でインドまでなんて無理ですから、大陸へ渡り、シベリア鉄道経由での帰国。
身分はアフガニスタン公使館職員ということにして、道中の食糧も特別配給。
内訳は缶詰、チーズ、ビスケット、鶏卵、アスパラガス、りんご、レモン、砂糖など。
蛍の墓も目前な時代の食糧としては破格の待遇に感じます。
1928年、時のアフガン国王からの特使をパスポート不備を理由に、
刑事が特使を担いで汽船に放り込んだ時代とは比較にならない扱いです。
最初はドタバタしてますが、先人が紡いだ日本人とアフガニスタン人の友好関係は今に続いているのです。
 
今回は明石書店から出版されている『日本・アフガニスタン関係全史』を参考にしております。
この本はなかなか面白いのですが、次回は少しのその点を書いてみます。