都鄙往還雑考

宝塚の山の中と街をいったりきたり 2022年12月よりブログタイトルを変更しています。それ以前の記事は順次整理していきます。

二人目の訪問者 その3

1925年(大正14)10月、田鍋安之助はカブールに到着。
年齢62歳。この時代の62歳はもう十分にお年寄りだろうし、アフガニスタンでは今でも十分にお年寄り。
若き日は海軍軍医学校で医学を修め、野に下っては医者もしながらほとんど大陸浪人
日露戦争前は対露開戦論を唱え、開戦すれば行動を起こし、座礁していたとはいえロシアの水雷艇を捕獲。
後から見れば日本の大陸進出の尖兵と批判できる行動もありそうですが、
たぶん外見は単なる元気の有り余ったじーさんだったではないかと勝手に予想。
お年寄りで、医者で、ロシア相手に武勲も立てた男。
長老が重要な位置を占める社会なので老人は敬意をもって扱われ、
医者は技術者と並んで尊敬される職種であり、
強い・勇気のある男が憧れ・手本になる民族で、
客人歓待が、掟であり民族の常識である国がアフガニスタンなのだ。
もはやここまでアフガンの人にウケのいい日本人がいるだろうか。
一介の民間人がアマヌラ国王と拝謁する運びになったのもなんとなく理解できる。
田鍋は帰国後、『亜富汗斯坦』という本を書き『日本・アフガニスタン関係全史』にその一部が転載されているが、
その詳細なこと「今日でもこれ以上のものは出ていない」と評されるほどの内容で、
滞在中の2ヶ月間、くまなくメモを採りまわり、また行く先々のアフガンの人から歓迎された証だろうと思う。
 
この時期、アフガニスタン国王はアマヌラ・ハーン。アフガニスタンは先代ハビブラ・ハーンの時代から、
日本との国交樹立を目指しており、アマヌラ国王は会見の席上でも
「日本と仲良くしたいのでいろいろ動いてるんだけど、いまだに日本からは返事が来ない」
「親書を書くから田鍋さんが天皇陛下の所へ持っていてくれ」
と、パシュトゥンらしいダイレクトな話に発展するのである。
時間を遡って1907年(明治40)ハビブラ・ハーン国王の王子アイユーブ・ハーンが来日している。
この王子には第2次アフガン戦争マイワンドの戦いでイギリス軍を撃滅した経験があり、
当時の日本が誇る軍人である東郷元帥や乃木大将と会談し、東京廃兵院へ200円を寄付している。
東京廃兵院とは日露戦争の傷病兵を収容した施設のこと。
千円あれば家が建つ時代だと思うので、200円といえど大金だったと思う。
王子殿下はきっと慈悲深い人だったのである。
最初からこれほど親日だったのに外務省は一顧だにしなかったとあれば、さすが霞ヶ関だと言うほかなし。
 
田鍋は国王に謁見したあと、寒い冬の季節にも関わらず暖かい英領インドではなく
「もしイギリスと関係が悪化すれば、アフガンに入れなくなるので、ソ連領ルートを拓く」と考えており、
バーミヤンの大仏を見学し、マザリシャリフを訪問、アマダリヤ河を渡河してタシュケント
モスクワに到り、アフガン北部を旅した初めての日本人となる。
やはりとんでもない老人である。きっと地雷を踏んでも死なないタイプだ。
彼の日露戦争で活躍(?)を思えばソ連政府がすんなりビザを出したのは驚きだが、
ソ連大使館にしてみれば、日本人と国王の謁見を阻止できなかったのは失点だったかもしれない。
さて国王の親書を持って帰った田鍋は、時の外務大臣幣原喜重郎を訪ね「アマヌラハン陛下の熱望」を語り、
親書が「天覧」に到るよう、侍従長から、皇族にまで働きかけて国交開始に尽力した自負しています。
さらにアフガニスタン倶楽部を創設し、友好関係を深めるべく尽くします。
人生のかなりの部分を中国で過ごした人物が、たった2ヶ月の滞在だったアフガニスタンへのこの熱意。
アフガニスタンとはそういう国です。
その甲斐があったのかどうか分からないが、1928年(昭和3)には修好基本条約が、
1930年(昭和5)には修好条約が結ばれている。
ところで田鍋安之助のこの旅の目的はなんだったけ?
もはやそれには触れるまい。前回の記事を読み返してはだめですよ。
もしこの人物がふらっと世界一周をしていなければ、
日本とアフガニスタンの国交が開かれるのはもっと先のことだったかもしれないのだ。
昭和初期の日本に、はるばるアフガンから留学生も来なかっただろう。
日本とアフガニスタンの友好を切り拓いた偉業を成し遂げた人物なのだ。
1946年(昭和21)に田鍋は亡くなる。
生まれが1863年だから享年は83歳。
 
参考文献
『続対支回顧録下』東亜同文会編 (昭和48年に原書房が再出版)
『日本・アフガニスタン関係全史』 明石書店