中学一年の三学期というのは、小学生気分からようやく中学生らしくもなり、
最初の一年間の終わりが見え、やれやれと思っている頃だったのだろうか?
もうよくは憶えていない。なにぶん、15年も前のことだ。
どうでもいい日常に、ウンザリだったかもしれない。
95年を迎えて間もない真冬の一月。一つ目の非日常は現れた。
当時、淡路島の洲本という田舎町に住んでいた僕は、17日の早朝、尋常ならぬ気配に目が覚めた。
一度寝たら簡単には起きない僕が目覚めるほどの異様な気配。
地震だとは思ったが、頭はそれを認識できなかった。
何かに押し潰されそうなプレッシャーが大気に漲っていた。
世界が凄まじい音を発していた。
揺れが収まりなんとか起きだして、テレビを点けて、地震速報を見る。
だが、洲本も神戸も震度は流れない。
「大したことないのかもね」
そう言って、ウチの家族はテレビの前から布団に戻った。
洲本の前は西宮に住んでたし、神戸・阪神間周辺に親戚、知り合いが多いウチの家的には、
その地震速報で一安心したのであった。
だが、現実はそうではない。
6千を超える命が消えていた。
学校に行く時間になって布団から抜け出すと、テレビのニュースがおかしい。
学校へ行ったが、その日は臨時休校になり、家に帰るとテレビは震災報道となっていた。
数日後、倒壊した家屋の中で身内の一人の死亡が確認された。
地震発生の1週間後にようやく行われた葬儀は、今でもよく憶えている。
これで全てではないが、僕にとっての震災はこれだけだ。
別に家が壊れたワケでも、避難所生活をしたワケでもない。
初めから今に至るまで、傍観者として震災に関わった。
これからも、きっとそうだろう。
遠くもなく、近くでもない。
震災は僕にとって、中途半端な距離に今もある。
15年前のあの一週間で、日常と言うモノは簡単に壊れるのだと思った。
それがどういう意味なのかよく分らなかったけど。
今も理解していないかもしれない。
死亡した身内の家は、長く更地にしたままだったが、数年前に人手に渡り、今では新しい建物が建っている。
すぐ近くには陸橋があるのだが、今のかの地で、その陸橋が新しくきれいな理由を、
どれだけの人が知っているだろう。
15年という時間は、そんなことでも不安にさせる。