都鄙往還雑考

宝塚の山の中と街をいったりきたり 2022年12月よりブログタイトルを変更しています。それ以前の記事は順次整理していきます。

垣内遺跡

http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001001270003
ちょうど一年くらい前の話。
淡路島の垣内遺跡の発見が新聞に載ったのは。
弥生時代後期の製鉄遺跡として関西では大きく報道された。
先日、板状鉄斧が見つかっていたことも報道されました。
それが、上の記事。
弥生時代後期で製鉄という大変貴重な遺跡で、時代的にも邪馬台国云々の時代に近いので
当然、その関連性を問う記事が新聞紙上を賑わせたのだが・・・
あまり知られていないが、淡路島北部、旧津名郡あたりの山の中は弥生時代の遺跡だらけだ。
分りやすく言うと、神戸行くと明石海峡大橋を渡りきったところから、
洲本のインターチェンジ辺りまでの地域だと思ってほしい。(余計にわからんか?)
時代も限定的で、弥生時代中期末~後期、土器のお話で言うところだと、四様式あたりで少しずつ見られ、
五様式あたりで急増する。いわゆる五様式の叩き甕が多くみられる。
終焉は庄内式の頃にあり、古墳時代が完全に始まる布留式にはほぼなくなる。
その遺跡の数は大小200を超える。こういう動きを示す地域は他ではないんじゃないだろうか。
山の中でも製塩土器が見つかったりと、海との繋がりを示す遺跡もある。
分らないのは、これらの遺跡の住人たちはどこから来て、どこへ行ったのか。
この時期、淡路型器台と呼ばれる淡路限定の土器も現れる。
この器台は島内だけでなく、明石川流域から大阪の河内あたり、さらに奈良の纏向遺跡にまで到達する。
畿内中枢部にまで淡路島は痕跡を残している。
そう言う次第で、この時期の淡路島は結構特殊な状況にある。
垣内遺跡だって、この200を超える遺跡との関連性を考えるところから始めるのが良いはずだ。
前から疑問だったのが、いわゆる国生み神話でなぜ淡路島が最初だったのかというところ。
淡路というところは、畿内に入ってないし、前方後円墳だってない(そうかもしれないのはあるらしい)
大和に都があるんだから、大和が最初でも良いはずだ。
時代が下れば、淡路廃帝早良親王を筆頭に流刑地ですよ。
なんでいの一番が淡路だったのかというのは、大変面白い謎。
やっぱり田舎だけど、それなりの勢力がいたと考えるのが自然で、
垣内遺跡もそういう勢力の中の遺跡なのかなあと思う。
だから、垣内遺跡の発見は出るべくして出てきたものなのだ。
それにしても、地域限定でマニアックな話になってスイマセン。
でも、これでも控え目に書いたのですよ。