都鄙往還雑考

宝塚の山の中と街をいったりきたり 2022年12月よりブログタイトルを変更しています。それ以前の記事は順次整理していきます。

15年前の非日常⑦

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上の写真は先日、阪急西宮北口駅に近い場所で撮った一枚。
おそらく震災で更地になった土地であると思う。
コンクリートの門柱だけが残った空き地。
うちの身内の家も、全く同じような空き地だった。
震災から10年の年、このような空き地はまだまだ残っていた。
だが、今はさすがに珍しくなって来ているのではないだろうか。
夙川に代表されるような有名な住宅街というブランド力と、大学、短大も集まる文教都市
阪急、阪神、JRと並行して走る交通の便の良さ。
ちょいと前のマンションブームが、これを見逃すはずがない。
加えて、北口駅から二駅ほど北にある某有名私立大学。
北口駅から一つ北ににある門戸厄神駅周辺は、
もともと学生向けのワンルームマンションの需要が高かった。
しかし、戦後から住宅街として開発されてきたこの地域の色に合致するはずがない。
震災前は、ワンルームマンション建設への反対運動が展開されていた。
震災が壊したのは家屋だけでなく人の立場。
ある土地は持ち主が亡くなり、ある土地では家屋が全壊した後も更地のまま。
家屋を再建する目途の立たない人、建て直すつもりがない人にも、
たとえ空き地のままであっても、固定資産税、相続税の支払いはとうぜん必要なる。
とくに行政は、震災10年で被災地での固定資産税の一部免除を終了する方針だった。
マンション開発を仕事にしている方々が、そこを狙わないワケがないのである。
震災10年から15年の間に、この地域の変化は決定的となった。
西宮北口駅の南、阪急ブレーブスの本拠地だった西宮球場は取り壊され、
阪急西宮ガーデンズという大型商業施設に変わった。
駅の南側で震災前の街の痕跡を見るのは難しい。
震災でダメージを受けた北東側にあった古い市場は取り壊された。
辛うじて北西側のみ、まだ震災前の痕跡を残している。
街の色、地域の色は確実に変わった。
それを示すのが、駅の略称。
駅の略称は「北口」だった。
これは、駅が開業した大正年間の西宮の市域が、駅周辺までしかなかったことに由来する。
近年、この駅の略称は「ニシキタ」となっている。
復興とは街を元通りに直すのではなく、別種の街につくり変えることである。
それが悪いワケではない。
ただ、たまに来る人には、ついて行くのが大変なだけ。

(写真はつい先日に西宮市内で撮影)