「日本は単一民族国家だ」という意見が少なからずある。
じゃあ、多民族国家なのかと言われても、多民族国家とはどんな国なのか、
日本にいると想像しにくい。
それは僕らの国が、多少はいろんな方言で「?」が浮かぶことはあれど、
基本的に日本語一つでどうにかなるからだ。
アフガニスタンは多民族国家だ。
ジャララバード周辺では、使われる言語は大きくは二つに分かれる。
一つはパシュトゥ語、もう一つはダリー語。
パシュトゥ語が多いが、郊外のソルフロッド郡出身者を中心にダリー語で育った人もいる。
これにパシャイー語も加わるが、ジャララバードの街中では少数派になる。
どれか一つの言語しか知らない人もいるが、パシュトゥとダリーの両方を使える人もかなりいる。
だから、育ってきた言語が違っても、たいがいの場合は話が通じ合う。
また学のある人は英語もできるし、パキスタンで生活していた人などはウルドゥー語も使えたりする。
バザールにはインド系の商人も少数ながらも存在する。
あの街には日本語一つで育った身には、複雑な世界が構築されていた。
でも、日本が日本語一つでことが済むようになったのは、いつからのことなんだろう。
古代、東北にいた蝦夷と呼ばれた人たちと畿内の人たちとの会話には「通訳」が必要だった。
九州では藤原広嗣の反乱に加わった隼人の降伏をさせるために、
官軍は自軍が支配下に置く隼人に、隼人の言葉で降伏勧告を行わせた。
畿内に住む王朝の人たちから見れば、蝦夷も隼人も外国だった。
面白いのは唐や新羅、渤海との間では「通訳」の存在が確認されているのだが、
百済との間では、まだ確認されていないという説がある。
百済の王子扶余豊璋は万葉集に和歌を残している説もある。
そうなると、畿内の王朝と百済との言語の関係は、現代の日韓の常識で考えると破綻する。
ジャララバードの街のように、互いの言葉を苦労なく操る人が豊富にいたことになる。
国境とか国籍という概念は、今とはきっと全然違う世界が構築されていたはずだ。
でも、学校でも個人的にでも、日本の歴史を学ぶ時、常に現代常識に拘束される。
それはきっと間違いだ。
遡って、弥生時代。北部九州、吉備、出雲、西部瀬戸内、東部瀬戸内、播磨、畿内、北陸、東海、
なんて地域分けをして、魏志倭人伝に出てくるクニに当てはめようとする人もいるけど、
弥生人=均一な日本人と思うのはかなり危険だ。
きっと彼らの宗教、習慣、儀礼、仕草、言語は地域によって相当な差異があり、
互いを同じ民族とは思ってなかった可能性もあるし、国境線なんて考えてもなかっただろう。
地域の中心都市にパシュトゥー語で育った人がいて、西の郊外にダリー語で育った人も住む。
山の方にはパシャイーで育った人もいる。都市にはほんの少しだけ、遠い土地から来た人もいる。
また、遠い土地へ旅立つ人もいる。言葉が通じ合うこともあるし、通じないこともある。
そんな風景が弥生時代の日本にもあったと想像するのは、ちょっと考え過ぎだろうか。