都鄙往還雑考

宝塚の山の中と街をいったりきたり 2022年12月よりブログタイトルを変更しています。それ以前の記事は順次整理していきます。

日本はいつから日本だったのだろう

「日本は単一民族国家だ」という意見が少なからずある。
じゃあ、多民族国家なのかと言われても、多民族国家とはどんな国なのか、
日本にいると想像しにくい。
それは僕らの国が、多少はいろんな方言で「?」が浮かぶことはあれど、
基本的に日本語一つでどうにかなるからだ。

アフガニスタン多民族国家だ。
ジャララバード周辺では、使われる言語は大きくは二つに分かれる。
一つはパシュトゥ語、もう一つはダリー語
パシュトゥ語が多いが、郊外のソルフロッド郡出身者を中心にダリー語で育った人もいる。
これにパシャイー語も加わるが、ジャララバードの街中では少数派になる。
どれか一つの言語しか知らない人もいるが、パシュトゥとダリーの両方を使える人もかなりいる。
だから、育ってきた言語が違っても、たいがいの場合は話が通じ合う。
また学のある人は英語もできるし、パキスタンで生活していた人などはウルドゥー語も使えたりする。
バザールにはインド系の商人も少数ながらも存在する。

あの街には日本語一つで育った身には、複雑な世界が構築されていた。
でも、日本が日本語一つでことが済むようになったのは、いつからのことなんだろう。
古代、東北にいた蝦夷と呼ばれた人たちと畿内の人たちとの会話には「通訳」が必要だった。
九州では藤原広嗣の反乱に加わった隼人の降伏をさせるために、
官軍は自軍が支配下に置く隼人に、隼人の言葉で降伏勧告を行わせた。
畿内に住む王朝の人たちから見れば、蝦夷も隼人も外国だった。
面白いのは唐や新羅渤海との間では「通訳」の存在が確認されているのだが、
百済との間では、まだ確認されていないという説がある。
百済の王子扶余豊璋は万葉集に和歌を残している説もある。
そうなると、畿内の王朝と百済との言語の関係は、現代の日韓の常識で考えると破綻する。
ジャララバードの街のように、互いの言葉を苦労なく操る人が豊富にいたことになる。
国境とか国籍という概念は、今とはきっと全然違う世界が構築されていたはずだ。
でも、学校でも個人的にでも、日本の歴史を学ぶ時、常に現代常識に拘束される。
それはきっと間違いだ。
遡って、弥生時代。北部九州、吉備、出雲、西部瀬戸内、東部瀬戸内、播磨、畿内、北陸、東海、
なんて地域分けをして、魏志倭人伝に出てくるクニに当てはめようとする人もいるけど、
弥生人=均一な日本人と思うのはかなり危険だ。
きっと彼らの宗教、習慣、儀礼、仕草、言語は地域によって相当な差異があり、
互いを同じ民族とは思ってなかった可能性もあるし、国境線なんて考えてもなかっただろう。
地域の中心都市にパシュトゥー語で育った人がいて、西の郊外にダリー語で育った人も住む。
山の方にはパシャイーで育った人もいる。都市にはほんの少しだけ、遠い土地から来た人もいる。
また、遠い土地へ旅立つ人もいる。言葉が通じ合うこともあるし、通じないこともある。
そんな風景が弥生時代の日本にもあったと想像するのは、ちょっと考え過ぎだろうか。